私の人生を変えた恩師についてお話しいたします。
私が大学3〜4回生で受講していた心身障がいゼミ。
そのゼミの教授の名前は 藤村 哲 ( ふじむら てつ )先生です。
痩せていて白髪頭のメガネをかけ、お酒とタバコをこよなく愛し、いつもニコニコ笑顔にあふれた優しい方でした。
先生が32歳の時、日本で「福祉の父」と言われた、糸賀一雄先生 にスカウトされ、西日本初の重症児施設「びわこ学園」建設のため日々企業や厚生省周りをされて、その設立に大変貢献されました。その御苦労たるや、数ヶ月ですっかり白髪になられてしまったそうです。
藤村先生は、その時の苦労話や糸賀一雄先生とのエピソードをよくゼミの中でお話ししてくれました。
その中で、特に印象に残っている言葉は、
「 この子ら 『を 』世の光に 」 です。
「何で「この子たちに愛の手を」という様な言われ方をしなければならないのか⁉️
この子たちの存在こそ、私たちの社会、あるいは私たちの人間観を切り拓いていく
大変な、重要な存在だというように考えると、
何故、「 この子ら 『に』」というような言われ方をしなければならないのか⁉️
「 この子ら『を 』世の光に」なんだよ 」
今も鮮明に、藤村先生の情熱に溢れた生き様とあの力強い言葉が、私の心の中の深いところに染み込んでいて、今でも私の原点です。
藤村先生は現場からの叩き上げで生きてこられた方ですから、
「どこからの目線か」をいつも厳しく指摘され、
「自分で行動して体験して来なさい‼️」 と、決して答えを言われない先生でした。
藤村ゼミの学生たちは、自分で問題を発見して、自分で問題解決していく訓練を随分させられました。
「君らの中に将来施設で働く人が出ると思うが、施設で子どもたちが作る物(作業所で)を
人に「お情け」で買ってもらうような品物だけは作らせるなよ‼️」
「君達が創意工夫しながら問題解決していく癖をつけていきなさい‼️」
ゼミ生達は幾つかのボランティア活動をしていて、
私もその中の一つの家族のところでお世話になることになりました。
それが、ドーマン法との初めての出会いでした。
その当時からドーマン法は虐待に近い方法である。という世間の噂がありました。
しかし藤村先生は、
『 先ず自分で体験してから判断しなさい。
でないと人の意見に振り回されてしまう事になる。
真実が見えなくなる‼️ 』 と 言って送り出してくれました。
ボランティア先の小さな男の子は、2歳の時に風邪で高熱を発症して、ウイルスが脳脊髄液に侵入して重い脳障がい児となってしまいました。
ある時、お母さんはポツリと言われました。
「 世間では、この療法を人権無視だとか、虐待だとか噂されているけど、子どもを施設に預けて全く会いにも来ない親や、人任せに依存してしまうことの方が虐待に近いと思う。」
「この子の中には溢れる生命力がみなぎっている。その輝きを煌めかせるため地道にコツコツと訓練を続けてるの。 結果はそれに伴って現れてくるものなの。」
子どもの潜在能力を信じ、
毎日実行して、成果を上げてきているから出てきた言葉で、
全く迷いのない信念が感じられました。
口先だけで実際に経験していない人達や
口先だけで批判だけするような人達には、
決してわからない世界だと思いました。
そんなある日、そのお母さんから、
「 藤牧君、あなたドーマン研究所で勉強してみる気ある⁉️」と聞かれました。
「 実は、研究所で日本人スタッフを募集しているみたいよ! 今度ドーマン研究所の人が日本に来る時に面接があるようなの。あなたのことを話しておいて良い⁉️」
以前からとても興味があって、勉強してみたい と思っていたので、
「 ハイ ‼️‼️ お願いします‼️‼️‼️ 」 即答していました。
親に内緒で、アメリカ大使館に行って、パスポートを取ってしまいました。
そして卒業式2週間後の4月1日に、片道切符だけでアメリカに渡りました。
…………それから4年近く研究生活を送って行きました。
言葉の通じない異国の地で、辛い時にはいつも大空を見上げて恩師の藤村先生のあの優しいお顔を思い出したものです。
現在の私は 、障がいを持つお子さん達に「療育プログラム」を提供していますが、私がこの自分の身体を使って実際に経験してきたこと 、そしてその後習得したマクロバイオテックの食事療法、頭蓋仙骨療法の臨床経験、それら全ての知識・経験を創意工夫してオリジナルなものに創り上げました。
藤村先生の言葉が無ければ、ただ学んだことをコピーするだけになっていたかもしれません。
藤村ゼミ生である誇りを胸に、また先生の顔に泥を塗らないように、まだまだ精進して行く所存です。
マッキー